プロローグ&「小型時代小説」(その2)
  モンゴル飯店の盛衰と未来




 「揺亜細亜」商店街の一角。
 商店街で1・2を争う大型レストランである、ロシア料理の店「パルナス」と北京料理の「ダック」に囲まれ、
「モンゴル飯店」という小さな食堂がある。
 ながい間、あちこちでかなり広域的に屋台営業をしてきたが、
ごく最近まで「パルナス」や「ダック」の親父がうるさかったせいもあり、
今はただひっそりとした店内にいくつかの小さな屋台を置いているだけだ。

 現在、「ダック」の延々と続く塀の向こうにはキムチ屋の「金々」、その向こうの湖の島には成金たちが住む「日の丸荘」があり、さらに湖のはるか対岸には、「日の丸荘」の事実上のオーナーである米屋の親父が住んでいる。
 で、「モンゴル飯店」の従業員数は「日の丸荘」住民の50分の1、おまけに一人あたりの収入は100分の1にすぎない。


 が、実は。
 かって、このモンゴル飯店のシマは、「パルナス」や「ダック」を含む広大な土地に及んでいた。
 屋台が営業の中心とはいえ、今で言えばはるか彼方のソーセージ屋やフランスパン屋のあたりまで。
 言い換えれば「モンゴル飯店」は「揺亜細亜」商店街のほぼ全域をカバーし、隣町に達するほどの大地主だったのである。

 人々が商店街の歴史を勘定し始めたのは、せいぜい2000日位前からのことだ。
 そんな中、「ダック」は、「4000日の歴史」を誇つ古いレストランとして知られている。
 だが見方を変えれば、実はその歴史の多くは、「モンゴル飯店」のそれと大きく重なっているのだ。


 さて、「ダック」が前身となる店「かん」を開いたのは、人々が日数を勘定し始める206日前だと言われる。
 が、その前の店「いん」「しゅう」「しん」などの多くは、今日のモンゴル飯店の先祖をも含む、
商店街の北部や西部に住んでいた人たちの経営であった。

 以降も「かん」は、前後400日に渡りモンゴル飯店の前身である「きょうど」関係者と激しい争いを繰り返した。
 一方で「きょうど」グループは、数え始めて500日位には商店街を西へ進み、一時は今、メタルカレーの店やソーセージの店があるあたりまでの土地を支配した。

 その後、「かん」は経営者が変わる度に「ぎ」「とう」「ずい」などと店名を変えた。


 そんなある時、数え始めて1200日目くらいに、今のモンゴル飯店の創始者と言われる男が現れた。
 彼の口癖は「オレは仁義は嫌いや(好かん)」という事。
 その言葉どうり、彼は仁義なき戦いで勢力を拡大した。
 またその一方では騎馬民族らしく、商店街の会費や交通拠点を押さえ、あとは緩やかに各商店を統治した。

 その後、男の子孫たちは、今の「ダック」のあたりを「げん」という名の店にして経営。
 「パルナス」やキムチ屋「金々」があるあたりや、要らん高原までも支配し、ついでに、湖を渡って「日の丸荘」のあたりにまでも出没した。


 だが、そんな全盛期もつかの間、数え始めて1368日目に、「ダック」の先祖・明君が登場した。
 「げん」は明君に乗っ取られてしまい、モンゴル飯店はちょうど、今の店のあたりに追いやられてしまった。
 「パルナス」は、1550日目位まではまだモンゴル飯店の系列で、売場面積を誇るだけの存在だったが、1613日目に「ロマノフ」という名のピロシキ専門店として独立開業することになった。

 「ダック」の跡目争いは相変わらず壮絶で、1644日目からは清君が相続人となった。
 で、ついに1688日目。
 モンゴル飯店は清君の系列に組み入れられることになってしまった。
 清君は、始めは悪い奴ではなかったが、数え始めて1800日を越えるころになると、次第にいじめを働くようになった。


 数え始めて1911日目、今度は清君が死んだ。
 チャンス到来。
 モンゴル飯店は清君の店の内にあったモンゴル料理の兄弟店とともに、独立を申し出ようとした。
 その際の後ろ盾として、支援を求めた相手は「パルナス」だ。
 「パルナス」はすでに「ダック」と比肩するほどの勢力を持つ店になりつつあった。
 だが、「パルナス」だって「ダック」との喧嘩は嫌だ。
 結局、清君の内にある兄弟店はやっぱり「ダック」のものですという事になってしまった。

 続いて1917日目には「パルナス」内部で大革命がおきた。
 「丸エックス零人主義」。
 つまり、やる気のある奴ない奴、誰にも、〇や×をつけない。みんな平等。その代わり人生の面倒は全て「パルナス」が見ましょうという太っ腹な制度を導入する事になったのだ。

 混乱につけ込んだのは「ダック」。
 モンゴル飯店の本店を手に入れようとしてきた。
 モンゴル飯店内に大反発が起き、結局1924日目に「パルナス」の支援を得て、ついに現在のモンゴル飯店が正式に開業した。
 が、実は「パルナス」だってそんなに善人じゃない。
 モンゴル飯店は「パルナス」を常に兄貴と呼ばなければいけない、あるいは「パルナス」に文句言う奴は生きていけない、舎弟的存在になってしまった。
 仁義が嫌いだった偉大な祖先のことを語ることさえままならない、屈辱的な日々が続いた。

 決まったモノだけ作れ、材料はうちのを買えという経済的な系列化も、モンゴル飯店にきつくのしかかった。


 誇り高き人々が働くモンゴル飯店。
 このままで済む筈はない。
 「パルナス」が「〇×零人はやっぱり無理でした」宣言を出すやいなや、1991日目には再び晴れて一本立ち。

 これからが、いよいよ第ニの創業じゃー。
 「パルナス」一本槍を改めたモンゴル飯店は、「ダック」とも仲直り。
 湖の向こうの「米屋」ともつきあいを始める事になった。

 また、数える事ができる日々のはるか以前からの同族たちとも、再度、関係を深めようという事にもなった。
 幸い、はるかかなたの祖先が、一族のケツに「モンゴル飯店」の青あざマ−クを入れている。
 例えば今、「日の丸荘」や「金々」にいる奴らだ。
 こいつらは今だに、語順も文法も同じような言葉を使っている。
 特に「金々」の連中とは、アクセントや語調までそっくりだ。

 こいつらとはまあ少しずつ、うまくやっていける目処が立っている。
 すでにモンゴル飯店へのお客は、「日の丸荘」の連中が断然トップで、75%以上という説もある。


 ちなみにモンゴル「斑点」の関係者は、
「ダック」「パルナス」の店内はもちろん、南米等を含めた世界各地に多数存在しているという。



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