モンゴルは飛んで行く(2000)



    プロロ−グ「モンゴル飯店の盛衰と未来」


    
   


 モンゴルは飛んで行く。
 船では行けない。

 トップページにも書いたけど、僕のプライベートの人生目標は、世界中の全ての国を訪れること。
 本当にできるかどうかは別にして、これをやったことある日本人って、まだいないんじゃない?
 新しく独立した国や、小さな島国や、北朝鮮みたいに国交がない所もあるから。

 で、今の仕事を辞めたら、第二の人生記念に1年くらい放浪してあちこち行ってやるぜって思ってるんだけど、まあ仕事やってるうちはコツコツと頑張るしかないなって感じだね。
 そんな中、まあ一応、今年から毎年夏には、まだ行ってないアジアの国(ネパール、ブータン、モンゴル、パキスタン、スリランカ)を1−2個ずつ「征服」していくことにした。


 実際にモンゴルを訪れたのは、2000年9月2日から6日にかけて。
 上記の中で一番安く、行きやすそうだったからなんだけど、まあシーズンなので17万くらいかかった。
 それから、やっぱりモンゴルを好きな人たちがやってる旅行社はちょっとのんびりしているのか、それとも夏が絶対的なトップシーズンであるためか、電話してから実際の予約が出来るまでに1ケ月近くもかかってしまった。
 ちなみにウランバートルまでは関空から週2本の直行便が出ている他、各空港から韓国や中国の航空会社を使い、ソウル・北京などを経由して行く方法がある。

 で、以下は5日間の雑感です。



  9月2日(土)

 14時発のモンゴル航空で関空を出ると、かなりあっけなく、4時間半くらいでウランバートルに着いた。
 思ってたよりずっと近いね。
 これが第一印象。
 ジンギスカンは実は源義経だって説があって、そんなバカなってずっと思ってたけど、確かにこの位の距離なら来られるわ。
 物理的には、山田長政がタイに行ったのの半分位の労力で。
 もちろん別にその「説」を肯定したりはしないけど。

     


 今回の旅は(も?)事前の予習は全くゼロ。
 で、関空に着いてやっと、本屋で唯一売っていたガイドブック(地球の歩き方)を買った。
 飛行機の中で読んでて「げっ!!」と思ったのは、本当に寒いってこと。夏はどこでも一緒だろってタカくくってた自分がバカだった。
 9月の平均気温は9度。
 大阪はまだ30度だってのに。
 おいおい、短パンにサンダルで来ちゃったよ。
 Tシャツの替え4枚も持って。
 念のために長袖やジーンズは1枚ずつ持って来てるけど、セーターとか靴とか靴下、現地調達しなきゃ。
 何でも現地の冬はマイナス40度になるとか。
 マジかよ。

 通関とかは全くスムーズ。
 が、改めて乗客の顔見てみると、本当に日本人とモンゴル人って全く見分けがつかないね。
 韓国人や中国人は声もでかいし、立ち居振る舞いで結構分かるけど、モンゴル人は服装(おしゃれで皆、いいもの着てる)といい、大人しい感じといい、じぇんじぇん日本人とおんなじだね。
 どいつが味方でどいつが敵(??)なのかさっぱり分からん。
 変な感じ。

 東京から新幹線乗って、みんな東京の人かなーみたいな感覚でいたら、名古屋こえるとだんだん関西弁が大きくなってきて、何だよー8割位関西人だったんじゃねえかよーって思ったことがあったけど、さしずめ僕はその時の東京人の立場だな。
 未来の惑星に来て、皆、自分と同じ顔してるんだけど、どんな習慣かも分からないし、コミュニケーションもとれそうにないし、とりあえずどうしていいのか分からんぜって顔してた、シュワルツネッカーの気持ちがやっと理解できたよ。

 で、ともあれ短パンを着替え、空港を出て、現地代理店の人とホテルへ。
 街の雰囲気はロシアに、言葉の感じは韓国語に似ている。
 途中、闇両替商が集まってる広場に連れてってもらい、現地通貨(トゥグリク)をゲットした。
 約11で割ると円になる。
 その後、街の真ん中にあるホテルにチェックインしたが、外は静かで、何だか北海道か信州にでも来ている感じだ。
 あんまり外国って感じはしないなー。

       

    


 30分ほど街をぶらついた後、ベトナムの失敗もあるから、初日はあまり飛ばさずにホテルのバーでメシを食べることにした。
 アメリカナイズされた、よくあるアジアのおしゃれなバ−。
 値段は日本より少し安いくらいで、ビールとメシで15ドル。
 だけど、モンゴルのヤッピーみたいな人たちでけっこう賑わっていた。

 モンゴル人の平均月収は5万Tgらしいから、だいたい4500円。
 でも、そんな貧しい国には全く見えないね。
 けっこう皆、車もメ−ルも携帯も持ってる。

 もちろん、この国にも地下経済があるからだが、
多分それがもたらす格差は、他のバカでかい国以上にすさまじいもんなんだろう。
 そのあたりの格差の度合いはキュ−バにも似てるし、ヤッピーたちのビヘイビアは、かっての中国人にそっくりだな。

 で、バンドが弾いていたのはビートルズメドレー。
 隣のヤッピ−姉さんがいろいろ話しかけてきたけど、英語うまかったな。
 けっこうカッコいいディスコやカラオケなんかもあるらしい。
 顔の見分け方は「ほおぼね」が発達してるのがモンゴル人、「えら」が張ってるのが韓国人、何もないのが日本人だって。
 僕たち、皆さんみたいに、昔からいいもの食ってないからね。

 まあかくして、同じ顔の人達が住むロシアみたいな街の、アメリカナイズされた店で、中国人みたいなヤッピーと韓国語みたいな言葉、ついでにイギリス民謡(?)に囲まれて、1日目の夜はふけていったのでありました。



  9月3日(日)

 二日目は市内観光にあてた。
 まずは「国立デパート」で、スニーカーと靴下とセーターをゲットした。
 国立デパートは外見は立派だが、中はけっこう社会主義。この国の人達、ホントにいいモノ着てるし、建物の外観で何かを期待した自分もちょっと愚かだったけど、照明も暗いし、内装とかサービスとかもイマイチという印象。
 ソファ−とか箪笥とか、シャ−プの家電なんかを売っていた。
 衣料品なんかは、お世辞にも豊富とはいえない感じがした。
 中国産のインチキナイキ(ナイキのマークに髭が生えてる)1600円。セ−タ−2000円、靴下一組60円。

      


 さて、ウランバールの人口は70万位。
 人口の4分の1がここに住み、電力の75%をこの街が使用。国の経済の半分もこの街が占めている。

 前述したように、街のつくりはロシアにそっくりだ。
 それもそのはず。
 この国の近代史はロシアの影響を抜きには語れない。
 言葉にも、一般にはモンゴル文字じゃなくロシア文字があてられている。
 もちろんソビエト崩壊後は、モンゴル文字も勉強しているし、ジンギスカンについて語ることもOKになっているのだが、
街なかの看板ひとつを見ても、まだロシア文字の方が圧倒的に多い。
 
 で、歩いているうちに、この街がさして大きな街ではないこと、あるいはこの街が、全土の遊牧民たちと外部社会との接点みたいな役割で存在している(だけなのではないか)ということに気付くようになった。
 まあ、首都なんてどこでもそんなものかも知れないけれど、特にこの国はウランバ−トルだけじゃダメだわ。


 なんて思いながらホテルに帰ってみると、何とロビ−が重装備のツアー軍団に占拠されていた。
 50名位はいた。
 こいつら一体なにじんやーと思ったが、皆、日本人。
 ほおぼねもないし、えらもない。
 おまけに日本語をしゃべってる。
 しかも、半分以上が二十代の女の子だった。
 ツアーで来て、ゲルに1ー2泊するのだが、それにしてもこんなに人気があるとはね。
 特に、結構タフな体験をしたいっていう若い子たちがこんなにいるなんて。

 正直、日本にいる時は僕、そんなの全然、やってみたいと思わなかった。
 そういう「体験」型のツア−は僕が来たのと比べ7-8万円は高いし、モンゴルまで行って「集団行動」で、あらかじめ「契約」してあるゲルに行ってミルク飲ませてもらい「交流」して「感激」・・・なんて何だかね。
 チ−チ−パッパの「モンゴルごっこ」じゃあるまいし・・・と思っていたけど、現地で彼らの真剣な服装(!!)と、そういう事やってみたいって人の数を見て、何だかちょっと日本人を見直したような気分になった。
 観光客の75%が日本人だって聞いて、そんなのウソだろーって思ってたけど、意外とその秘密は日本人の心の中にあったのかも知れないと思った。


 で、僕も「豹変」というか「転向」を決意。
 とりあえず翌日に、近郊の田舎にいって「モンゴルごっこ」をやってみる気になった。

 そうと決まればウランバ−トルの主な場所は、今日のうちにできるだけ効率的に見るに限る。
 地球の歩き方にあった「日本語学習者の会」に電話して、ガイドをつけてもらうことにした。

 で、ガイドで来てくれたブギちゃん(新潟大への留学経験あり)と市内の観光スポットを回った。
  市内が一望できるザイサン・トルゴイは、ソ連によって建てられた戦勝記念碑のようなもの。
 知らなかったのだが、モンゴルって第二次大戦の「戦勝国」なのね。
 ロシアと一緒に最後の最後に「参戦」して。
 スフバートル広場(国会議事堂前の赤の広場か天安門広場みたいなの)にも「55周年バンザイ」みたいな旗がかけられていた。

   


 その他、ボクドハーン宮殿博物館、ザハ(フリーマーケット)、自然史博物館、チョイジンラマ寺院博物館などを回った。
 ザハの品揃えは「国立デパ−ト」の100倍はあった。
 値段は当然、ずっと安い。
 結局、「国立デパ−ト」って、重いもの売ってるだけなのか??

 夜は彼女の3人の友達も呼んで夕食。
 4人のうち3人は日本語会話はほぼ完璧。皆、今は家族とともにマンションに住んでいるが、おじいさんくらいまではゲルで生活していたっていう。
 ワンル−ムマンションは30万円位で買えるとか。
 「このままだと、みんなウランバートルに出てきちゃって、そのうち誰も遊牧生活しなくなるんじゃないの?」って聞いたら、
 「そうかも知れないですねー」って笑ってた。

 面白かったのは、モンゴル人にはどうやら名字や住所がないらしいって事。
 郵便の配達もないから、皆、郵便局に自分のポストボックスを持っている。
 いいよね-、そういう感じ。
 土地や家に縛られてなくて。

 で、試しに「門限は何時?」って聞いたら「2時(!)」だって。
 ホントかよ?
 お父さんはどの国でも大変だな。

 で、それなりに盛りあがって、デザ−トを食べてる時に、外で何発か大きな花火があがった。
 「何で?」って尋ねたら、ちょっと言いにくそうに「戦勝祝い」という答が返ってきた。
 モンゴルで花火見れるなんて思わなかったよ-と喜んでたので、何だかとてもガックリときた。

      



  9月4日(月)

 三日目は朝からテレルジという、70キロくらい離れた田舎・・・というか保養地のような所にでかけた。
 90分くらいの移動で、まあ「モンゴルごっこ」の最たるものだが、それでも一歩ウランバ−トルを出れば、見渡す限りの山や草原や岩肌が広がっている。
 本当の田舎はどんな所で、人々がそこでどんな「マイナス40度」の冬を過ごすのかを想像することはできないが、まあやっとモンゴルに来たな-っていう感じがした。


 ガイドはアヌ−ちゃん。
 この夏にモンゴル大学(日本で言えば東大。ただし人口比で考えれば、仙台の秀才が「仙台一高」に入るという感覚かも知れない)を卒業したが、その間、東京外大に国費留学していたことがある。
 日本語はまさに完璧。ロシア語、英語、中国語も同じ位できるという。
 モンゴル大学の中でも、相当な才媛であり、エリ−トなのだろう。
 子供の時、「数学コンテスト(?)」でモンゴル1になり、その後、モンゴル代表で福岡の国際子供会議(?)に出席。
 その事が彼女の目を大きく開かせたという。(福岡もいいことしてるね)
 将来は外交官になりたいというので、先日の選挙(民主化後、旧共産党の自由化の不徹底や腐敗ぶりを批判し政権をとった「民主連合」が、人民革命党(旧共産党)にボロ負け。今は76議席中、72議席が人民革命党)について聞いてみた。

 「福祉切り捨てとか、インフレ(10%)とか、かつての’期待の新政権’にも、いろんな不満が鬱積してたんでしょうね。経験や実務能力に欠けていたのかも知れないし、何より国有財産や海外援助を食い物にするような汚職がひどすぎた。旧共産党はけっこう恥ずかしそうに汚職してたけど、民主連合はその恥じらいさえないという感じで受け止められたのだと思います。革命党にやらせてみてダメだったら、また政権交代もあるんでしょうけど、でももう二度と共産主義の時代に戻る事はないですね」
 というのが彼女の答。
 23歳(だっけ?)にして、なかなかシャ−プでしょ。

 それにしても、国民のこのドラスチックな判断は本当にスゴイよねー。
 一院制、単純小選挙区制の威力もあるけど、いい意味での国の若さを感じてしまう。

 何だかんだって言っても、人口250万の小さな国。
 彼女のような若い人たちが変革期に果たせる役割は、ものすごく大きなものがあるんだろうなって思う。
 因みに彼女は今度、東大の大学院を受けるそう。
 ついでに松下政経塾も受けろよって言っといた。

         


 さて、テレルジは本当にいい所。
 山と川と森と草原に囲まれ、牛も馬も羊もラクダもおり、当然ゲルもある、モンゴル9冠王のような所だ。
 生まれて初めて馬に乗った。
 クラブハウスみたいな所で飲むコ-ヒ-は15円!!
 モンゴルの都会人がやってくる場所なんだろうなって思う。

 アヌ-ちゃんたちとは午後に別れ、ゲルを借りる事にした。
 で、あとはただ何もせず、草原や森の中をぶらぶらして過ごした。

 夜。
 人生最高の星空を見た。
 日本の十倍くらいは星があり、数分に一度、流れ星が見える。
 知人を多く亡くした。
 無数の、星の数ほどある星の中で、いろんな星座は、かなりはっきりした存在だ。
 二等星があんなに明るいものだということが初めて分った。
 それと、地球が本当に自転しているという事も。

    



  9月5日(火)

 事実上の最終日。
 ゲルの宿泊は思った以上に快適だった。
 テントとは当然雲泥の差だし、少なくとも壁がうすいアパ−トやワンル−ムマンションなんかよりは、ずっといい。
 実際に宿泊してみると、その形や構造が、雪や風、そして移動に対して、ものすごく合理的に作られているという事も分った。
 例えば丸い形は風を逃がすように、屋根は中にいる人に圧迫感を与えず、かつ容易に雪を落とせるような最適の高さになっている。
 おりたたんだ時にかさばらないような工夫もすごい。
 4-5人がかりで作業すれば1時間位でたたんだり、組み立てたりできるんだって。

            


 とはいえ、マイナス40度のなが-い冬も含めて、ここで暮らし続けるのは容易なことじゃないだろうな。
 社会科の授業で習った時は、好きな時に好きな所に移動して気楽な人たちだな-ってイメ−ジだったけど、雪の中で家畜のエサがある所や風の吹かない所を必然的にというか、仕方なしに探して暮らしているって事だもの。

 で、午前中はテレルジでぼんやりして過ごし、午後は「亀石」を見た後、ウランバ−トルへ。
 大学通り、革命家通り、活仏ザナバザル通り、平和通り、テ−ブルチッド通りと、市街地の西半分を徒歩で一周し、途中ガンダン寺(モンゴルの「大仏」と「金閣寺」がある)やウランバ−トル駅(いつか乗ってみたい北京--イルク−ツク--モスクワ路線はここを通る)などに立ち寄った。
 団地の中や路地にもくねくねと入ってみた。

      

       


 まあみんな、けっこうよろしくやってるよ。
 夏に関しては。
 遊牧民の人たちがあれだけの家畜を1年間育て、その毛や肉や乳や皮の合計が5万円にしかならないのなら、何かおかしいんじゃないのって気はするけれど。

 夜はアヌ-ちゃんとメシ。
 後は早朝のフライトに備えた。



  9月6日(水)

 明け方の飛行機の下には、どこまでも続く高原の姿が見えた。

 今にして思えば、子供の頃の社会科では、コンビナ−トとか何とか工業地帯とかが素晴らしくて、農業や牧畜やってる人は何となく時代遅れだってイメ−ジを植えつけられてきたような気がする。
 あの時点の日本はそれでよかったのかも知れないし、日本政府が今のような形で農業を保護する事にも反対だけど、
アジア各国が日本モデルを踏襲しようとしてるなら、それもまた、かなり違うんじゃないのって気がする。

 中国には中国にあった、モンゴルにはモンゴルにあった、近代化への方法があるはずだ。

 夏にだけやってきて、「モンゴルはいいですね-、うらやましいです。是非このままでやってって下さい」などと言う気はないし、
モンゴルはこれからこんな方向に「発展」していけばいいよって事も、おいそれとは言えない気がする。
 遊牧民を始めとする皆さんが、試行錯誤しながら、モンゴルらしい未来を選択してくれることを、ただただ願うのみだな。


 モンゴルは、ものすごい歴史と伝統を持ち、かつまだ若すぎる国だ。
 若い人たちには、多分、日本人の何十倍も色んなチャンスがあるのだろう。
 どうか外国の失敗したかも知れない部分を十分研究し、いい所だけを吸収して欲しいと思う。


    


 関空には、わずか3時間40分のフライトで到着した。

 「近代的」な空港の、まだ夏が続く出国ロビ−では、
僕よりはちょっとハ−ドな「モンゴルごっこ」をしたであろう数十名の一団が、
リュックにジャンパ−、一部モンゴル帽といういでたちで異彩を放っていた。

 そしてほどなく。
 その姿が一人、また一人と、日本の現実社会の中に消えて行った。



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