ハバロフスク 一番近いヨ−ロッパ(1996)




    


 20代の頃まで、僕の中でのロシア(ソ連)のイメ−ジはとても悪かった。

 例えば、友人にソ連や共産主義がいかに駄目かって事ばかりを研究している奴がいて、
東欧を含めて1ヶ月くらい旅をしてきて論文を発表したら、
みごとに入国拒否のブラックリストに載せられてしまったことがあった。
 松下政経塾の同僚の中にもちょっと「一塁より」に守りすぎじゃないの?という奴がいて、
やはり、どちらかというとそちら系の雑誌でソ連批判の論陣をはっており、
おかげで(?)僕らの国際関係のシンポジウムや何かには、
しょっちゅうソ連大使館の、無表情な職員たちが「偵察」に来ていたりした。

 何だか、そういう行為がとても異常に見え、好きじゃなかった。
 当然、アメリカを中心とした「反共」PRの影響を受けていた事も否めない。

 ちなみに、前者の彼はあれきり1回も、少なくとも「ソ連」には行けなかったはずなのに、今では立派な国際政治学者様になった。
 後者の彼も、今は一流の編集者。知らずに買って、何度か「エッ、この本、奴が作ったのか」って経験をしたことがある。
 当時、彼の結婚式で「ソ連が崩壊したら一番困るのは実は彼です。人生賭けてやる仕事がなくなっちゃうから」って言ったら、みんな大笑いしてたのに。



 で、僕が初めてソ連に行ったことになるのは、モスクワでのトランジット。
 空港の売店に、ひょうたんみたいなのの中に小さいひょうたんが入ってる「何とか人形」以外、何も売ってないのを見て、
「ロケット持ってる国が、何でこんなもんしか作れないんだよ--」って、何だかほほ笑ましく思った。


 その後、偶然、2人ほど「ロシアおたく」の友人ができた。
 一人は日本でロシアバレ−(踊るほうね)を見て虜になってしまい、OLをやめて留学までしたお姉さん。
 もう一人も長期の休みごとに、やはりロシア各地を訪れているおば・・・お姉さんだ。

 ソ連がロシアになり、彼女らからも色んな情報を得るにつけ、だんだんと
「ロシアって、意外と素朴で親しみやすい国なんじゃ?」と感じるようになってきた。
 特に「おば・・・お姉さん」が所属する「ロシア語翻訳同好会」(?)に買わされた(?)最近の短編小説集なんかを読むと、
家族関係、友人関係など、ほんまにええ奴ばっかりやんけ--という気になった。

 ただし、行ってみる事については、(少なくとも当時は)特定の所でしかツア−をやってないようだったし、
手続きとかも色々ややこしそうだったので、二の足を踏んでいた。
 一緒に行こうぜっていう友人も、まずいなかった。


 そんなある時、愛読書の「陸上競技マガジン」を読んでたら、「ハバロフスク・マラソン」の参加者募集が出ていた。
 これなら一人で参加できるかも。

 モスクワやサンクトペテルブルクに行くなら、長期の休みやそれなりのエネルギ−が必要だけど、
確かにハバロフスクなら気軽に行けそうだ。
 何だ、新潟から飛行機出てるんじゃん。
 ちょうど仕事も一段落ついた。
 そしたら急に仕事でゴ−ルデンウイ−クがつぶれた事に後悔の念がわいてきた。
 で、申し込む事にした。


 多分6月の下旬だったんじゃないかと思う。
 まあ、マラソンっていっても10キロなので、その位はトコトコ走れるように4-5日練習して、僕は新潟空港に降り立った。
 でも国際線乗り場がないぞ。
 普通、空港っていったら、どこかに海外旅行するっぽい人がいるもんだけど、どう見ても99%はドメスチック。
 そろそろ集合時間。まじめに国際線ロビ−を探さなきゃと思ってたら、目の前をデカイ白人が通りすぎた。
 で、そいつについてったら、スポ−ツ面でいえばカヌ−とか弓道が載るような位置に、バスの待合所みたいなのがあり、そこが「ロビ−」だった。
 地方の「国際空港」って面白いよね。何だか、変わった人だけ海外行って って感じで。


 で、3時間くらいのフライトで、あっと言う間にハバロフスクに着いた。
 そういえばロシアってお隣の国だったのねって感じがした。

     


 宿泊は一応、国営のナンバ−1ホテルだった。
 というより、多分、外国人旅行者はそこにしか泊まれないのだと思う。
 でも部屋は、ちょっとすっきりした宿舎って程度。

 街をぶらぶらしてみた。
 冬はどうなのか知らないけれど、夏の街はけっこうきれいで、皆よろしくやっている。
 アム−ル川のほとりには千人くらいの人が日光浴してる。
 緑も多い。
 こんな近くにヨ−ロッパがあったとは。
 で、ひっそりと、こんなにもたくさん白人の皆さんが住んでらっしゃったのね。
 時間的にも金銭的にも、何だかとても儲けた気分になった。

 寒くない季節の、短期の気分転換にはロシアの東海岸、けっこうおすすめですよ。

    


 で、夜には参加者によるパ−ティ−があるっていうんだけど、友好だ何だのっていう公式行事は正直、めんどくさい。
 マラソンマニアの人がいっぱいいる中で、デブの素人のふり(そうにしか見えないけど)してるのも疲れるし、
「実は僕、これでも元・選手なんですよ−」なんて釈明するのも大人げない。
 出席なんてや−めた。
 で、屋上の日本料理店で早々と天丼食った。
 何だか、店が「台形」だったような気がした。(右上の写真)

 その後、部屋でゴロゴロしてたら、電話が鳴って、「パ−ティは結団式を兼ねてるんで出てくれ」だって。
 やっぱり体育会系のツア−だったのね、コレ。



 で、まあ仕方ないから行こ--かと思い、エレベ−タ-に乗ったら、そこで何と母校の後輩と出くわしてしまった。

 杉本和之君。
 ワセダの競走部の6年くらい後輩で、初めて会ったのは卒業3年目の箱根駅伝。彼は2年生で平塚-戸塚間の8区を走った。
で、僕らはOBとして応援を兼ねて付き添いをしていた。
 母校はJ大学と優勝争いをしており、彼は区間賞の活躍。
その後、彼は4年の時にはインタ−カレッジでも優勝した。

 いつだったか、知り合いの高校生の息子さんが100メ−トルを10秒5で走ったという自慢話を聞き、
「そりゃすごい、是非、うちの大学受けてみて」って事になり、
わざわざ大阪出身の彼に来てもらった事もある。

 その知り合いの人、普段から少しおおげさで、自慢し-みたいな所があったのだけど、
いざ引き合わせたら「10秒5」じゃなく「11秒5」のまちがいで、彼にはとんだ無駄足を踏ませてしまった。

 まあ、そんな風にして、彼とはお互い顔見知りだった。

 杉本君は卒業後、海外青年協力隊で内モンゴルに行き、帰国後はワセダのコ−チ、
現役引退後の今は別府の立命館アジア太平洋大学の職員兼陸上部コ−チになってるのだが、
よりによってハバロフスクでいきなり出会うとは。
 お互い「なんでこいつがこんなとこにいるんや--」って感じだった。


 「お前、こんなとこで何してるの?」
 いや-マラソン選手に向かって、マラソン大会に来た市民ランナ−が「何してるの?」もないもんだが。
 「いや-、実は僕、そろそろ現役も最後のひと踏ん張りと思って、青森のM銀行で選手させてもらってんす。で、先輩こそ、何でこんなトコにいるんっすか?」
 「オレ?実はダイエッ・・じゃなかった、実は今だに陸上マガジンとってて、ツア−があったから、観光気分で参加したんだよ-」


 で、一緒にパ−ティに出た。
 青森からもたくさんの人が来ていた。ハバロフスクには新潟のほか、青森からも直行便が出ているのだ。
 県の陸上協会のエライ人もいた。
 青森-東京駅伝っていう県対抗の試合があるんだけれども、聞けば青森はその所、名前が駅伝のタイトルにまでなっているにもかかわらず、最下位。
 で、悲願のビリ脱出を目指して、杉本君に来てもらい、さらに今回、何とロシアの選手をスカウトしに来たのだという。
 いや-、目標としてはちょっとセコイけど、そのための発想はデカイ。
 グロ−バルだ。
 少なくとも僕の周りには、本当に日本海を隔ててロシアと何かやってみたいって奴なんか誰もいない。
 二人を除いて。

 パ−ティには、M銀行の市民ランナ−の人もいた。
 M銀行はどうやらロシアとの交流にものすごく力を入れているらしい。
 すでに数カ所に駐在員をおき、職員全員にロシアへの研修旅行があるとか。
 多分、M銀行は地元のリ−ディングカンパニ−で、トップの人も地元財界の重鎮という感じなのだろう。
 トップの人は、結構、進取の気質に富んだ方なのだろうが、
恐らく、飛行機のお客を確保して青森空港を「国際空港」として存続させなければみたいな事情もあるのだろう。

 まあでも、スゴイ事をやっておられるし、ある意味では、関西なんかよりずっと進んでいる。
 銀行職員にとっても、温泉旅行なんかに行くよりずっといい経験になるし、何といっても「夢」がある。
 費用だって、東京や大阪に研修行くのと大差ないだろう。
 青森、恐るべし。
 東京や関西が日本で一番進んでるみたいな感覚って、ホントに大間違いだなと思った。

 その後、銀行不況なんかもあったので、M銀行や青森の「国際化戦略」が今、どうなっているのかは知らないけれど、青森-東京駅伝で、念願のビリ脱出を果たした事だけは「陸上マガジン」で見た、ような気がする。



 パ−ティ終了後、杉本君と地下のバ−に飲みに行った。
 そこにも驚くべき光景があった。
 一応ここは、ハバロフスク一のホテルのメインバ−。
 そこでは10人くらいの農協っぽいおっさんたち(青森の人だとは断定しないが、全員東北弁)と、
30人くらいの若くてスタイルのいい金髪美女たちが、よろしくその後の交渉をしていた。
 で、おっさんたちが結構互角にわたり合ってる。
 ずいぶん慣れた感じで。
 よしあしの話は別にして、僕の周りにはこんなに自然体で白人女に声かけれる奴なんて、ほとんどいない。

 で、僕と杉本君の所にも、いれかわりたちかわり美女たちがやってきた。
 でも、僕たち、単にビ−ル飲みに来ただけなんだけど。
 僕は人並みにスケベではあるけれど、絶対に買春はしない。
 なんでかというと、めんどくさいから。
 で、杉本君も全然そんな気はない(多分)。

 でも、断っても断っても、女たちは単にそいつの交渉が決裂しただけと思って、次から次へとやってくる。
 10秒も2人っきりにはさせてくれないような感じで。
 世間話をしてみると、ほんとかウソかは知らないけど、大学では数学専攻してるとか言ってる。
 確かに、日本のホステスと比べると、明らかにこっちの方が教養ありそうに見える。
 
 で、周囲では次々と「交渉」が成立していく。
 彼女たち、全く罪の意識なんてない感じであっけらかんとしている。
 ロシア人って、性に関して、ものすご---く開放的な人たちなのかも知れない。

 それと街を見ていても思ったのだが、黄色人種に対する偏見みたいなものを、全然感じない。
 そういえば、「おたく」のどっちかが言ってた。
 「黄色人種って頭いいって、どちらかというと尊敬されてると思う」って。

 彼女は、こうも言ってた。
 「ロシアの人って、みんな基本的には素朴な農村の人なのよ。」
 だからノリがあうって訳じゃないんだろうけど。

 その時ふと、資本主義陣営のボイコットで揺れたモスクワ五輪の開会式の時に、マスゲ−ムで熊の何とか君の目から涙が流れたシ−ンを思い出した。
 侵攻ばっかりやってて何をしらじらしい、とあの時は思ったけど、
あれってロシアのほとんどの人たちの本心だったんだろうな--って。


 まあそれはそれとして、杉本君と、ここじゃ話できんから場所かえようか--って言ってたら、「数学」が55歳位の日焼けしたオヤジにゲットされた。
 テ−ブルから立ちあがると、オヤジは155センチ位。「数学」は185くらいはあった。
 (セミじゃないんだから)

 でもこれじゃ、帰国しても日本のスナックみたいな所には、アホらしくて行く気しないだろうな。



 翌朝も、「コ−スの下見」とかがあるとかで、やっぱり部屋に電話がかかって来た。
 仮病を使ってパスをした。
 だって明日は試合なのに、遊ぶ時間がないじゃんか。
 で、アム−ル川で日光浴したり、街じゅうを走ってるトロリ−バスに乗ったり、買い物をしたりして過ごした。


    


 ところで。
 実はその日の一週間後には、エリチィンの選挙がある事になっていた。
 日本ではその、なりふり構わず口約束をバラまいてる姿が報道されていた。
 でも、こんな馬鹿デカイ国での選挙運動って一体どうするんだろう???


        


 少なくとも、東部の主要都市・ハバロフスクでは、選挙のム−ドなんて全くゼロ。
 トロリ−バスで街じゅうの主な箇所、かなり回ったけど、
対立候補のものも含め、選挙を表す(らしき)ものを目にしたのは上の写真のポスタ−1枚っきりだった。
 これでホントに来週、選挙になんてなるのかよ?


 で、夜はまた、杉本君と飲みに行った。
 調子が出てきて、結構、遅くなった。
 にもかかわらず、もっと飲も-ぜと言ってる僕に、杉本君曰く。
 「先輩、僕、明日、朝練しなきゃいけないんでもう寝ます。」
 「何言ってんだよ-、こんな大会、別に勝っても負けてもいいんだろ。」
 「いや-、実は僕、明日、絶対、少なくとも日本人じゃトップにならないとマズイんです。」
 「そんなもん、絶対、大丈夫。お前より速いの、いたとしてもJ大学OBのYくらいだよ。
それに、パ−ティの時に話したらアイツ、最近、仕事が無茶苦茶忙しくて、全然練習できてないって言ってたじゃんか。」

 「いや、とにかくトップで入らないと、ホントにマズイんです。」

 で、その日はそれでお開き。
 仕方ないから、昨日のバ−にいき、白人美女たちをふらふらとはぐらかしながら、後は一人で飲んだ。

 モテル女たちが、ビ−チで声かけられたり、男たちにさんざんおごらせながらあしらうのって、
多分、こんな感じなんだろうなって思った。


      

 さて、いよいよ(?)試合当日。
 会場に行ってみて、やっと昨晩の杉本君の言葉の意味が分った。
 スタンドや道路ぞいには「M銀行」の大応援団が駆けつけていた。
 日本語で「M銀行」って書いた小旗を打ち振って。
 日本語じゃ、ハバロフスクの市民は何の旗なのかさっぱり分らんだろうけど、
ともかく、こりゃ確かに、負けちゃヤバイわ。


 開会式には出場選手全員が参加する、入場行進があった。
 でも、段取りが悪く、並んでから行進までに1時間くらいかかった。
 「日本選手団(!)」は4列なら4列ですぐ言われた通りにするんだけれど、大多数を占めるロシアの選手は全然バラバラ。
 で、前が4列になったと思って、指揮官が後ろに行って帰って来たら、前はもう6列とか3列とかになっちゃってる。
 その繰り返し。(左下の写真)
 おまけに、ブラスバンドの10人が並んだと思ったら、今度は民族衣装の5人(右の写真)がどこかに行っちゃったりしてる。

   

 まあ、それもその筈。
 パ−ティで挨拶してた市の体育協会長みたいな人が、整列から何から一人でやってるんだもの。
 彼がとっても情熱家で、いい人だって事は十分に分った。
 でもこれじゃ、アメリカと戦争してたとしても、核兵器とミサイル戦以外は全く勝負にならなかったわ。
 その昔、何で日本が戦争に勝ったりしたのかもやっと分ったよ。

 それと、選手はいつウォ−ミング・アップするんだ?
 オレには別にそんなもの必要ないけど。



 で、レ−スは「体育協会長氏」のピストルで始まり、市内をぐるっと1周して終わった。
 僕はエリチィンの2枚目のポスタ−を探しながら、ちんたら走った。
 杉本君は日本人ではダントツのトップ。
 昨夜までの執拗なビ−ル攻撃にもめげず、全体でも3位に入った。
 (下の写真は、終了後、子供たち囲まれサインに励む杉本君)

    


 杉本君より速かった選手はいずれもロシアで5番か10番目くらいの選手。
 青森陸協の人が一生懸命スカウトしてた。
 話ははずんだけど、結局、うまくはまとまらなかったらしい。


 翌日、「日本選手団」は新潟組、青森組に分かれ、ハバロフスクを後にした。



 で、帰ってから大会でもらった参加賞の包みを開けると、
そこには何とあの、「エリチィン候補」の写真入りTシャツが堂々と入っていた。
 これってエリチィンの私費・・・な訳ないよな--。


       


 ともかく、ロシア東海岸は本当に近く、夏はなかなか快適。
 で、何でもありの現状も含め、ロシア人が愛すべき人たちなんだって事はよく分った。

 「となりのトトロ」か何かで、探している妖怪(?)が実は後ろの山そのもので、
でかすぎて誰も気づかなかったみたいなシ−ンがあったけど、
日本人にとって、ロシアって多分、そんな感じの観光地だったんだと思う。
 これからは結構、バリアブルかつリ−ズナブルなデスティネ−ションになりうるんじゃないかな。

 スポ−ツや農業関係以外の方、
あと、バレ−や翻訳や新潟や青森に無関係な人にも、是非、気軽に行ってみてほしい所だと思った。



「世界の街から」とびらへ

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