被爆者は何の「被害者」だったのか?(01/8/11)


 長崎の原爆忌が終わった。
 あの戦争を振り返り、核廃絶を求めるというのは大切なことだ。
 だが、僕たちは広島、長崎の被爆から、
人類の失敗、国や組織の失敗、あるいは日本人の失敗について、
本当はもっと将来性のある学び方をしなければいけないんじゃないかとも思う。

1)まず、そもそも原爆は、なぜ投下されたのだろうか?
 アメリカが「原爆を開発できたので、3日以内に降伏しなければ落とすよ」とでも言えば、もしかしたら戦争はそれでおしまいだったのかも知れないのに。

 特に長崎に投下された2つ目の原爆は、明らかに終戦後のロシアを意識したものだったと僕は思う。
 アメリカには戦争の早期終結を図らなければいけない理由があり、日本が竹ヤリの玉砕戦法であがいていた時に、世界はすでに東西冷戦の時代に入り始めていたのだ。

 もう一つ考えられるのは、軍や技術、あるいは理科系の暴走だ。
 クローン研究が行き着く所まで行き着いたり、大阪の地下鉄建設(市街地面積あたりのネットワークは明らかに東京以上)が、いつまでたっても続いていこうとしてるのと同じで、
はっきり言えばこれは、極めて下らない理由だ。
 あの原爆投下に関して人類が得るべき教訓の一つは、組織や技術の暴走が悲劇を生むということなのではないかと思う。

2)もちろん。
 色んな事情があったにせよ、厳然たる事実として「あの戦争」の前には「日本が起こした」というフレーズが着く。

 原爆を落とされたのは基本的には日本の自業自得の世界であり、
アジアの国との関係では、
日本は独立や開発に多少の貢献をしていたとしても、
あるいは、少なくとも敗戦という結果がある限りにおいて、
完全な「加害者」であることは間違いがない。

 つまり、広島や長崎の名のもとに、
単純に「被害者」を気取っている日本人が多いなら、
それはまた、重大な勘違いだということになる。

3)としても。
 一体、彼らは何のせいであんな目にあわなければいけなかったのだろうか?
 まず言えるのは、彼らは国家や戦争や当時のバカ指導者の「犠牲者」だったということだ。
 その意味では、現在の国の代表者が、彼らに頭を下げるのはあたり前の話で、
靖国参拝にしても宗教上の問題があるなら「私人」としてでも行かざるを得ないし、
「合祀」に象徴される思想的問題が靖国にあるなら、
今回を最後に違う場所に葬ってあげないといけないと思う。
 悪いけど、これじゃあまりに戦没者が浮かばれないよ。

4)一方では、日本があんな無謀な戦争に突入した背景には、
広くは戦いをあおったメディアと、それにわいた日本人一人一人にも責任があったことに気づかないといけない。
 このあたりの総評は田原聡一朗の「日本の戦争」に詳しいが、小泉フィーバーをあげるまでもなく、このA型国家特有の危険なメンタリティは、今の社会にも脈々と受け継がれてる。
 恐い話だ。
 (ちなみにドイツもA型国家!)

5)ということで、結局、
広島や長崎、あるいは沖縄の人たちは、そういう国家や戦争やバカ指導者や国民性みたいなものの、
国内地域的に見た場合の、最大の被害者になった。

 で、ここでもう一つ気づかなければいけない点は、
原爆はたまたま自分や自分の先祖がいた所には投下されなかった、
というだけのことじゃなかったのかということだ。
 例えばなぜ彼らが中枢機能の集中する東京にそれを投下し、
日本を属国にしなかったのかということを、僕は今だに不思議に思う。

 広島、長崎などの被害はたまたま「自分の身代わり」になったというようなことであり、
全国民がその痛みを分け合う気持ちを持つべきなのだが、
どうもそういう風にはなってきていないのが残念だ。


 とはいえそれらの反面では、人類が最終兵器に近いものを手にし、
その威力が証明されたことによって、
結果的に、今の世界に一定の平和がもたらされていることも事実。

 またもし仮に「あれ」がなければ、
日本にはその後、
韓国のように東西に分断される運命が待っていたのかも知れない。

 広島、長崎の多くの人の死が無駄ではなかったとすれば、
結局のところ、そんなことなんだろうなと僕は感じているのだが。