日韓の歴史交流の現場を巡る
辛いのくにロケハン紀行(2001.3.10-16)
それは昨秋、某料亭での朝日放送(ABC)・柴田社長の一言から始まった。
「歴史街道で、韓国との交流史みたいなのやらへんか?」
ABCは僕らの計画の関連番組「歴史街道ロマンへの扉」を、すでに1700回も放映して下さっている局。
とてもお世話になっている。
「い-ですね-。実は僕、韓国はちょいと詳しいんですよ」と、調子よく答えた。
で、「やろうやろう」ということで、その夜は終わった。
年明けには、放送のだいたいの構想が固まった。
が。
ぶっつけ本番は危険かも。
特に古代史関連の場所では、どこまでに取材許可が出るかが分らない。
で、「一辺、ともかく行ってみよう」ということになった。
まあいわゆる「ロケハン」というヤツですね。
メンバ−はABCの担当プロデュ−サ−の栗田氏、番組制作の東通企画から制作プロデュ−サ−の佐藤氏と加島監督。
それに僕。
KNTO(韓国観光公社)大阪支社の呉支社長らの皆さんの協力も得て、だいたいの行程を決めた。
また、出発直前になり、
「韓国はちょいと詳しい」という僕の知識と能力に大いなる疑念を抱いた栗田氏のとっさの判断により、
韓州旅行社から歴史関係のベテランガイドを手配してもらえることになった。
あ-よかった!

(金海市 首露王妃陵にて 左から佐藤さん、僕、史蹟地管理事務所の南美香嬢、加島さん、栗田さん)
3/10 ソウル まずはお決まりコ−スから
飛行機は13時10分発のアシアナ。
が、誰とは言わないが11時半の集合時間になって、
「今、家を出てなんばに向かってます。まあ間に合いますから大丈夫、大丈夫。皆さんはお先にどうぞ」というふざけた電話をかけて来た人がいる。(註1)
何とまあ。
前途多難のスタ−トだ。
空港でガイド役を務める金日南さん(?歳)の出迎えを受け、国立博物館、景福宮をざっと見学。
知っている人が多いと思うけど、ソウルのこの国立博物館はついこのあいだまで隣接地、つまり景福宮前の旧日本総督府あとにあった。
が、その建物が「日帝時代」を想起させるってことで、数年前に取り壊し。
王宮の前にそんなもの建てた当時の日本政府もひどいけど、まあなかなか風格のある建物だったし、
当時の日本が建てたソウル市庁やソウル駅同様、それなりに景観になじんでいたような感じもしていたので、
僕は「わざわざそんなケンカみたいなこと言わなくてもいいのにな-」と思っていた。
その時には。
実際、韓国でも2通りの意見があったらしい。
保存派の意見は「もったいない」とか「もういいじゃんか」派と、「日本の悪事を証明する建物だから残せ」派に分裂していたらしいけど。
でも、今となっては断然、無い方がいいね。
景観的にはもちろんだけど、象徴的な建物が持つ心理的影響力って、ものすごく大きいよ。
多分、多くの韓国人が、「思った以上に」すっきりしたんだと思う。
以前撮った写真を下に載せておくけれども、この方がよかったって人は、韓国人にも日本人にも、もう一人もいないだろうな。
当時の金詠三大統領の判断は、とても正しかったって気がする。
先月、松下政経塾に来られたから、お世辞言う訳じゃないけども。
で、まず今回、僕がものすごく驚いたのは、国立博物館にいる日本の修学旅行生の多さだった。
僕らがいた時間帯だけかも知れないけれど、見学者の半分以上が日本のガキどもだ。
いや-、ホントいい時代になったもんだよ。
さて、ソウルの国立博物館には、広隆寺の弥勒菩薩そっくりの「半伽思惟像」がある。
2つの仏像は確かによく似ており(上の写真)、しかも日本のものは、韓国産のアカマツで作られているらしい。
両国の繋がりを象徴的に示す一例だが、仏像のサイズは全く異なり、日本の方がはるかに大きい。
それと、よく見ると表情にも少し差がある。
多分、日本人には広隆寺の方が美人に見え、韓国人からするとその逆ということなんだと思う。
広隆寺は新羅出身の秦氏のお寺なので「半伽思惟像」も新羅製かと思いきや、その表情は何だか百済仏。
諸説あり、以前は新羅製となっていた博物館の表示は「三国時代」に訂正されていた。
撮影は休館日の月曜ならOKという返事。
申請の仕方を教えてもらった。
ホテルはプレジデント。
以前、思い出したくもないヒドイ「事件」がおき、できれば一生泊まりたくないと思っている、ロッテホテルのお隣にある。 (註2)
19時半から、僕に韓国語を教えてくれた鬼教師 K・MS嬢と、当HPの「美女もしくは才女による韓国語講座」に出てもらっているC・SN嬢を交え、明洞(ミョンドン)でメシ。
C・SN嬢が先日結婚したと聞き、ショックのあまり、焼肉がおいしく喉を通った。
「お約束コ−ス」の仕上げは南大門市場。
どうやらお買い物好きな人が多いようで、困ったものだ。
お約束ついでにアカスリにでもと思ったが、サウナはたいてい夜10時か11時まで。その代わり朝は5時や6時くらいからやっている。
なんでやねん??
その感覚は分らんぜ。
(註1:僕のことです)
(註2:別にロッテホテルに問題があったということではありません、念のため)
3/11 ソウル 韓国に学ぶこと多し
午前中は、番組を支援してもらっているスポンサ−企業の皆さんと合流し、宗廟と秘苑へ。
韓国の世界遺産は5箇所、うち2つがソウル市内にあるこの2箇所だ。
おすすめは、何と言っても秘苑。
ガイドブックにはいつも景福宮の方が先に、でっかく書いてあり、秘苑は付け足し扱い。
「お好きな方はどうぞ」って感じなのだが、僕はじぇったいに(なまってどうする)秘苑の方が見ごたえがあると思う。
特に歴史に興味がなく「1つ見れば十分」っていう人には、景福宮よりもこっちの方をお薦めするな。
(オレは営業マンか??)
秘苑にはだいたい1時間ごとの入場制限がある。
文化財保護や人員の都合もあるのだろうが、かなり前から、韓・英・中・日の言語別にガイドと回るスタイルをとっている。
僕はソウルには12-3回は来ており、秘苑も3回目なのだが、
日曜日だからか、「世界遺産効果」か、あるいは口コミで「あっちの方がいいよ」ってのが広がったのか、
以前に比べ、飛躍的に来場者が増えている。
前に来た時は1回せいぜい数十人だったのが、2-300人くらいの日本人がガイドと一緒にぞろぞろと苑内を回る。
ガイドのスキルがものすごくアップしていることにも驚いた。
けっこう色んな所で、笑いをとっている。
多分、前回も同じお姉さんに当たったのだが、数年間の歳月は彼女を大きく成長させていた。(左下の写真)

ところで、「国をあげての観光」という意味での日韓の取り組みには、実は雲泥の差があることをご存知だろうか?
「もちろん」というか「意外にも」というか、「雲」は韓国で「泥」が日本だ。
例えば、韓国では歴史の場所には、国によって統一様式の説明が建てられ(同)、説明文は日・英・中併記が常識。
主要観光スポットには大抵、外国語が出来るガイドが常に「待機」している。(右上の写真)
ホテルは特級、1級などにランク分けされており、苦情は観光公社が一括して受け付け。
その旨がエレベ−タ−やフロント、客室内にも記してある。
最新の祭事情報も観光公社にて月刊で発行され、ホテルなどの目につく所におかれている。
地下鉄駅には駅番号がついており、路線色とあわせ、誰でもが不安なく利用できるようになっている。
などなど。
片や、日本では観光は自治体や民間任せ。
多くの観光事業者や観光地にとっては、外国人はあくまで日本人の「ついで」。
例えば、新幹線の切符にすらロ−マ字併記がなされていないような状態だ。
ワ−ルドカップを機会に、日本が謙虚に韓国に学んで行くべき点は、実はものすごく多い。
ちなみに、日本国の観光予算はたったの30億円しかなく、そのほとんどが海外事務所の家賃と人件費。
事業費なんてゼロみたいなものだ。
ハ−ドにばかり予算をつける大蔵省が馬鹿で無能だということか、観光を管轄する運輸省が無力でヤル気に欠けるということか?
金ばかりでなく、人材やシステムも違う。
韓国では今度、僕らがロンドンとパリで「日韓共同フォ−ラム」をやった時に知り合った友人が観光局長に昇進した。
彼は僕と同年代で、まだ40そこそこだ。
大統領や朴セリなど、各界の国際的有名人を引っ張り出して、海外CMなどもガンガンやっている。
片や日本では、ほんの少し前までの運輸省の「観光部」は、船やバスや飛行機の許認可行政から「落ちこぼれた」奴が行く日陰者のセクションだったらしい。
要は、観光事業者を許認可し、管理するのがお仕事という発想だ。
そんな意識と人材難が悪循環を繰り返し、予算獲得を困難にしてきたことは想像に難くない。
まあでも日本も、さすがに最近は少し目が覚め始めた。
「緊急経済対策」の一環で始めた、海外でのTVコマ−シャルなどなど。
が、ちなみに、アジアでの日本観光のCMに出てるのは酒井法子だ。
中国や台湾はそれでいいけど、訪日外客数トップの韓国では誰一人、ノリピ−なんて知らないんだけどな(苦笑)。
さて。
昼食場所でスポンサ−グル−プと別れた後は、
資料やカメラポイントを求めて徳寿宮の博物館、かっての両班(ヤンバン:エリ−ト階級)の家、南山などを回り、
夕方近くになって、オリンピックスタジアム近くの「百済古墳群」を訪れた。
「百済古墳群」はガイドブックには出ていないややマニアックな場所で、以前から存在は知っていたものの、行ったことはなかった。
で、まあ期待薄だとは思いつつ、ロッテワ−ルドの博物館を見るついでということで、車を回してもらうことにしたのだが、
ここがなかなかよかった。
区が市民公園みたいな形で保存し、少しずつ調査しているらしい。
突然の訪問にも関わらず、日本の町の教育委員会にいる「発掘担当」の人と同じ空気を持ったお兄さんが、
ものすごく親切に対応してくれた。(左下の写真)
まあ別に、日本からの観光客にお勧めって場所ではないけだろうけどね。
最後に訪れたロッテワ−ルドの博物館は、韓国の歴史を概観するには絶好の場所。
多分、修学旅行誘致用の施設なのだと思うが、韓国を深く理解したい人や是非ともホンモノを見たいっていう人以外には、
展示に工夫が凝らされている分、こっちの方が国立博物館や民族博物館よりも面白いと思う。
最大の特徴は、模型類が豊富なため擬似体験がしやすいということ。
以前から、ソウルのスケジュ−ルのどこに組み込むのがいいかな-と考えていたのだが、
今回みたいに、ソウルの主要ポイントを訪問し、かつ地方訪問の前という感じがベストのタイミングではないかと思う。
見学後、ロッテワ−ルドで食事をし、地下鉄でホテルへ。
明日以降のスケジュ−ルや番組内容の修正につき、深夜まで話しこんだ。

3/12 水原・公州・扶余 李夕湖先生
最もハ−ドな1日。
昨夜の打合せで、5つの世界遺産は全て取材しておこうということになり、それに伴ってスケジュ−ルを若干、前倒しにすることになったからだ。
早朝にソウルを出発し、水原(スウォン)に向かった。
水原はソウルの南、約い時間半にある、世界遺産「華城」に囲まれた城郭都市。
できるだけここはパッと見て・・・という予定だったのだが、そうは問屋がおろさなかった。
何より史蹟が素晴らしかったのと、地元の皆さんがあまりにも熱心だったからだ。
日本語のボランティアガイドは、羅恵星さん。
5.7キロの城壁をほぼ半周し、約3時間をかけて説明していただいた。
全員の感想は「これならどうにでも撮れるね」ということ。
日本人にはあまり知られていないし、ガイドブックにも「よかったらどうぞ」という扱いの街だが、
少なくとも韓国リピ−タ−の人には、是非一度足を伸ばして欲しい場所だと思った。


昼過ぎに移動開始。
ドライブインで昼食をとった後、めざすは475年から538年にかけての百済の王都・公州だ。
高句麗の影響下、百済の都はソウル・公州・扶余と、常に南に移されてきた。
公州の駐車場で待っていて下さったのは、司馬遼太郎さんの「韓のくに紀行」にも登場する百済史の第一人者・李夕季先生。
先生には半年ほど前に、歴史街道倶楽部(個人会員組織)の韓国ツア−を実施した際にも、
講演をお願いしたことがある。
今回も熱烈な愛・百済心で、僕たちに色々な知識を授けて下さった。
さて、公州にある武寧王陵は1971年に発見されたもの。
当時の古墳はほぼ例外なく盗掘に会っているが、この古墳だけは無傷で、
中からは王が523年に62歳で死んだという墓誌や、伝・仁徳陵とウリ2つの鏡が出土している。
が、あいにく展示館は工事中。
古墳公園をぐるりと一周した後、山上にある王宮の比定地で、「夕湖節」を聞いた。
「今、百済には何も残ってない。でも、百済の文化がどんなに素晴らしいものだったかは、飛鳥や奈良に行けば分る」
その後、東学党の乱の戦いの碑を経由して、660年の白村江の戦いで滅んだ最後の百済の都・扶余(プヨ)に向かった。
定林寺に唯一残る五重塔は、滋賀県にも全くウリ2つのものがある。
雁鴨池の落日(夕湖先生の名前はここから来ている)を見た後、
出演交渉を含めて、かっての王宮跡に建つというご自宅におじゃまし、次いで市内でお礼の会食。
面白いお話をいっぱい聞いたが、多分、6月に放送されるであろう番組内容に抵触してしまうので、あんまりここでは書かない。
ただ言えることは、古代の両国がまさに「一衣帯水」の関係にあったということ。
西に新羅、北に高句麗と接し、さらにその北には中国がいるシビアな環境の下、
百済と日本の間には、技術や文化はもちろん、多分、指導者の姻戚関係も含めたものすごく密接な交流があったと思う。
昨日、秘苑で後にソウルから水原に王様が乗っていったという馬車みたいなのを見けど、
こんなのに乗っててくてく物騒な陸地を移動するよりも、船に乗って海を渡る方がそりゃはるかに簡単だもの。
それにまあ百済からすれば、敵は新羅や高句麗だ。
日本と仲良くするのは、例えばマクドナルドが同業他社のロッテリアやバ−ガ−キングをやっつけるために、「キティちゃん」や「スヌ−ピ−」と提携するみたいなことなんだろう。
また「遅れた場所」であった当時の大和からすれば、進んだ文化はやはり魅力的。
例えばビックマックはおいしいし、ニコニコ店員はやっぱりうれしいということだったんだと思う。
当然、当時には今でいう「日本人」とか「韓国人」とかいう概念はなかった。
少なくとも当時の「大和」の人々が、進んだ文化を持つ人々との混血をタブ−視していたはずはない。

(左:公州の古墳公園にて 右のコ−ト姿が李夕湖先生)
(中:東学党の乱の碑)
(右:公州の門=奥 をくぐった所。しかしいきなりラブホテルってのは何とかならんかね=白い建物)
で、さんざん盛りあがった後、儒城温泉のホテルに着いたのが夜の11時前。
風呂はもちろん、もののみごとに閉まっていた。
3/13 海印寺・友鹿洞 地方都市も頑張っている
今日は儒城温泉から、世界文化遺産の4番目海印寺(ヘインサ)と大邸(テグ)の南にある友鹿洞(ウロクトン)を取材し、夜に慶州に入るというスケジュ−ル。
半島を西から東へと横断する旅になる。
ということで、昼すぎに到着したのが伽耶山系の山上にある海印寺。
仏教の力で国を守ろうとして延々と掘られた8000本の経木とともに、世界遺産になっている。
ここを案内してくれたのは、安嬢。
2時間に渡って、熱心に寺のことを解説してもらったが、どうやら経木をモロに撮影するのは厳しそうだ。
瓦を寄進して、夕暮れまでに次の目的地に急いだ。

ところで。
昨日今日と、僕たちは4つの歴史観光地を巡って、
ソウル以外の地方都市でも、歴史の保全活用や国際観光への対応が盛んに行われてきている事実に認識を新たにしてきた。
特にワ−ルドカップまでに、色んな施設を復元し、世界からの人を迎え入れようとする動きが、今、韓国ではものすごく盛んだ。
景福宮でも、水原でも、公州でも、扶余でも、いずれも歴史の目玉となる古い建造物を、かなり大規模に復元工事している現場に出くわした。
サッカ−ファンやマスコミと、競技場を作るゼネコンと、自治体や国・民間の観光関係者が、全くバラバラにしか動いていない日本とはエライ違いだと思う。
それと前にも書いたが、何と言っても素晴らしいのは外国人向けの案内だ。
でもまあ。
次に行く所については、多分、話は別だろう。
大邸の南にある友鹿洞(ウロクトン)は、司馬さんの「韓のくに紀行」に出てくる、小さな村。
かって豊臣秀吉が韓半島に攻め入った時、「秀吉の出兵に理なし」として3000名の兵士を率いて現地に投降した沙也可という武将が居を構えた村だ。
決して観光地ではない。
だからまあ、こんな山の中では日本語ができる現地ガイドなんて絶対にいないだろうと思っていた。
ところが何ということだ。
ここにも日本語案内員が、いた。
大邸市から派遣されているという李ウンジョン嬢。
現地を訪れる司馬ファンが、何と年間6000人くらいいるからという。
司馬さんの影響力にも驚いたが、いきなりの現地訪問に対応できるという体制に、さらにびっくりした。
大学で日本語を勉強したというが、これからどんどん国際観光をやってくぞ-っていう流れの中で、
若い能力を生かす場が各地に準備されているというのは、本当に素晴らしいことだと思った。

夜。
李嬢の取り計らいで、沙也可の子孫代表・金氏とお会いすることができ、出演交渉。(右の写真)
「沙也可は日本という国や社会を裏切ったんじゃなくて、秀吉を裏切ったんだと思いますよ。」
金氏によれば、当時の日韓の戦いは「鉄砲vsヤリ」で全く勝負にならなかったのだという。
当時の戦いで、韓国には今も、歴史建造物の類はあまり残っていないのだが、
何であれだけの期間でそんな無茶ができたんだろうという、素朴な疑問が1つ解けた。
沙也可はその後、火薬銃の製法を韓国に普及し、金姓を受け、一族全員が両班となった。
現在の子孫は数千名に及んでいるという。
3/14 慶州 からいもん4兄弟
慶州に来るのは3回目だ。
いい意味でも、そうでもない意味でも、ずいぶん総合的な観光地になってきたなという感じがする。
牛丼の松屋がカレ−ライスを出し始めた時の感覚に似ている。
普門リゾ−トのヒルトンホテルに泊まったのだが、平日にもかかわらず、同じフロアの客室はほぼ満室状態だった。
扶余でも感じたことだが、ここ数年間で、道が飛躍的によくなったような感じも受ける。
が、特に慶州は現代自動車の工場があるウルサンとも近いため、トラックが多く、ちょいと味気なくなってきている点も否めない。
いずこも抱える悩みは同じって感じがする。

(左:ホテルロビ−にて。チェックアウト後に、ボ−イが市内パンフを持って来てくれた。日本ではまずあり得ないサ−ビス)
(中:石窟庵に向かう道路脇の街灯)
(右:古墳公園内で唯一内部公開されている天馬塚古墳。同公園は行政から民間に運営を委託。数倍の入場者が来るようになったらしい)
さて、慶州では仏国寺+石窟庵が世界遺産に登録されている。
で、市内のロケハン風景はこんな感じ。

(左:石窟庵の仏像が伊勢神宮を向いて座ってるという情報を得て、ボ−イスカウト手法で方向を確認する栗田氏)
(中:仏国寺のビュ−ポイント探し)
(右:撮影に来ていたKBS関係者と遭遇。許可申請や機材レンタルについての情報をゲットする)
隠れポイントとして、文武大王の海中塚や感恩寺址にも足を伸ばした。
あと、これもワ−ルドカップを睨んでなんだろう。
ここでも博物館が増築工事を行っていた。

ところで。
今回のメシは何と、朝をのぞいて最後までず-っと韓国料理。
僕は当然、韓国料理は好きでよく食べる。
が、自分よりも辛いモンが得意な人には、それほど会ったことがない。
だから、いつもは日本人のメシにはけっこう気をつかうのに、こんなグル−プはほんっっっっっっとうに珍しい。
名づけて「からいもん4兄弟」。
どちらかというと一番ネをあげていたのは僕だった。
「あっ、マクドナルドがありますよ。ヒルメシはあそこでもいいかも」なんて言っても皆、知らんぷりだったな。
で、今回のメシで一番うまかったのは、慶州仏国寺近くの「釜山食堂」(下の写真中央)で食ったチヂミ。
「うまいうまい」と言ったら、日本語ができるものすご-く気のいいハルモニ(左)が、どんどん持ってきてくれてちょっと困った。
でも、とろけるような舌ざわりは、まさに絶品。
(右はガイドの金さんとドライバ−さんへの「ありがとう会」の様子/いずれも慶州にて)

3/15-16 金海・釜山 伽耶だって負けてはいない
事実上の最終日。
昨夜のうちに釜山に移動し、宿泊はロッテホテル。
一昨年にもイベントを開いた、僕が知る限りの、世界のベストホテルの1つだ。
ガイドの金さんにすすめられて、「ラスベガスショ−」なるものを見たが、特に前半部分の韓国の歴史絵巻みたいなショ-はなかなか楽しめた。
まあUSJはできるけど、それまでは大阪にはこんなスペ−スなんて1つもないかったことを、情けなく感じた。
関西の役所の皆さんも、「井の中の蛙」じゃホントにまずいよ!
さて。
「日韓関係の歴史には色々不幸な歴史もありましたが」というスピ−チをする時、
日本人は特に日帝時代のことなんかを「水に流してね」という意識しか持っていないが、
韓国人は「日本と韓国の歴史的関係は、実はイイ時代の方がずっと長かった」ことまで理解しているという話を
誰かから聞いたことがあるような気がする。
古代史以外で、その長く続いた「イイ時代」を象徴するのが、「朝鮮通信使」だろう。
韓国から見れば秀吉は憎き侵略者だが、これを倒した家康はイイ奴だということになるらしく、日韓関係はまたイイ感じに向かった。
で、一夜あけてまず訪問したのが、釜山市立博物館。
橿原考古学研究所に来られてたこともある、学術研究士の羅東旭氏に「朝鮮通信使」時代の「倭館」の位置を教えてもらう。
今、釜山タワ−の立つ竜頭山公園あたりらしいということは分っていたのだが、実は3回に渡って移動しており、あと2箇所あるという。
こりゃ大変だ。
明日は10時過ぎには空港に行かないといけないので、この件はちょっと後回し。
新しくできた金海国立博物館の方に移動することにした。
金海(キメ)は釜山から3-40分のところにあるかっての伽耶の中心地。
伽耶、つまり任那はかっての日本と最も密接な関わりがあった場所だが、日本では関連書物もほとんど発行されておらず、
始めは「取材しても無駄じゃ?」という感じがしていた場所だ。
もちろん、ガイドブックなどにもあまり出ていない。
が、行ってみるとコレがよかった。
金姓の最大派閥(?)である「金海の金」の発祥地であり、
最近は「一族」の中から金大中、金鐘泌氏などの大物政治家が出てきたこともあるのだろうが、
博物館を中心に、ものすごく歴史的特色を前面に打ち出した街づくりが進んでいる。

金海国立博物館は「鉄の王国」のイメ−ジ。(下の写真中央)
日本語案内者のチェ・ヒェジュン嬢(同左)に説明してもらった。
説明もうまかったが、展示物がものすごく豊富だった。
ソウルや慶州のなどよりずっと。
で、いち早く鉄で栄えたこの地が、いかに進んだ文化を所有していたかがよく理解できた。
韓国人が歴史を説明する時にはいつも、
「日本に土器しかなかった時代の何百年か前から、韓国ではもう鉄器を使ってました」というくだりがあるのだが、
僕の受け止め方は完全に「ハイハイ分ったよ」って感じから、
「う-ん、その通りだなあ。文化レベルの差は歴然だったんだな-」っていう意識に変わった。
ちなみに、百済・新羅と伽耶の古墳をざっと比較してみると、
石道や石室があるのが百済。だから盗掘が多く、武寧王陵以外からはあんまり何も出て来ない。
で、大和の古墳はだいたいがこのパタ−ン。
新羅のには石室はなく、棺の上から土を被せる。で、そのうち棺ごとペシャンコになるから、盗掘しにくい。
だから新羅のからは、けっこう出て来る。
伽耶のには棺自体がない。
北九州の埋葬法は伽耶と同じで、逆に伽耶のからは九州産の黒曜石が出て来ていたりする。
どうです?
細かい点はまちがってるかも知れないけれど、古代史の謎が解けてくる感じがしませんか?
そんな時、メンバ−の一人がポツリと一言。
「そういえば欽明って、’キメ’と似てますよね-」
あんたはエライ。
当たってるかどうかは別にして。
でも、素人にとっての古代史って、多分、そういうことなんじゃないかって思う。
続いて、伽耶国の始祖である首王陵と王妃陵を南美香嬢(上の写真右)に説明してもらった。
彼女も日本語案内担当で、金海市の文化整備課に所属している。
韓国国内の最大グル−プ、「金海の金さん」の本拠であるこの御陵には、
今日もどこかの金さん一族が、先祖の墓参りに来ていた。(下の写真中央)
代表の方に話を聞く。(左)
ここもワ−ルドカップを睨んでか、門前広場を工事中だった。
で、右下は王妃の御陵。
この王妃はインドから来たことがはっきりしているらしい。
前にも書いたけど、多分、古代ってそういう時代だったんだろうね。
ナショナリズムにあけくれた、以降の千数百年って一体何だったんだよ-って感じがする。
で、問題なのは、この道路部分。
この御陵は本体(冒頭の写真)が右側にあり、上から見ると亀のような形をしており、多分、左側が頭。
なのに、日本軍がわざと首の所をちょんぎっちゃった。
おいおい、諸先輩方。
21世紀に生きるオレたちに迷惑かけるの、もういい加減にしろよな-。
バカヤロ−!!

金海から釜山へ戻ると、陽はどっぷりとくれていた。
だが、ロケハンはまだ終わらない。
加島監督が撮影ポイントを探して、釜山タワ−をよじ登っている。
市内をぐるぐる探し回り、倭館の場所のうち2つは大体見つかった。
翌朝、早朝からの宿題を残して、からいもん4兄弟が最後の「韓国メシ」へと旅だった時には、
夜も10時を回っていた。
誰だよ-、今夜はとことん遊ぼうなんて言ってる奴は-?
ということで。
韓国でお知り合いになれた皆さん、不届き者の4兄弟に色々とご協力いただき、ありがとごじゃいました。
また、5月の撮影時にもお世話になりますが、どうぞヨロシクお願いします。
これからの、日韓関係がどうか上手く発展していきますように!
おまけ
最後に、僕らの行程をおさらいしよう。
下の地図、ちょっと見えにくくて申し訳ないけど、「1」の所がソウル。
で、その下が水原。さらに7の下が公州と扶余で、泊まったのが大田(デジョン)の近くの儒城温泉。まあこのあたりが百済のエリア。
で、次の海印寺と友鹿洞は10の大邸の近辺。さらに東にあるのが、新羅の都・慶州。
さらに6のところにあるのが釜山で、そのすぐ上に金海(キメ)。このあたりが、伽耶(カヤ)とかカラとか任那とか言われてる地域。
とまあ、こんな感じ。

で、右の写真のまんなかが移動風景。左が佐藤氏、右は加島監督。
上は大田に建設中のサッカ−競技場。主要都市にはワ−ルドカップの準備もがどんどん進んでいる。
下は高速道路。値段は日本の10分の1くらいで、写真の箇所など一部では、中央の分離壁が取り外し可能になっている。多分、有事対策なのだと思う。
で、ここは片側4車線なんだけど、写真左のブル−ラインからの1列は「6人乗り以上の車」の専用線だとか。
まあこの国は、いちいちやることがはっきりしていていいよね。