3/12 水原・公州・扶余  李夕湖先生

 最もハ−ドな1日。 
 昨夜の打合せで、5つの世界遺産は全て取材しておこうということになり、それに伴ってスケジュ−ルを若干、前倒しにすることになったからだ。

 早朝にソウルを出発し、水原(スウォン)に向かった。
 水原はソウルの南、約1時間半にある、世界遺産「華城」に囲まれた城郭都市。
 できるだけここはパッと見て・・・という予定だったのだが、そうは問屋がおろさなかった。
 何より史蹟が素晴らしかったのと、地元の皆さんがあまりにも熱心だったからだ。

 日本語のボランティアガイドは、羅恵星さん。
 5.7キロの城壁をほぼ半周し、約3時間をかけて説明していただいた。
 全員の感想は「これはどこでも絵になるね」ということ。
 日本人にはあまり知られていないし、ガイドブックにも「よかったらどうぞ」という扱いの街だが、
少なくとも韓国リピ−タ−の人には、是非一度足を伸ばして欲しい場所だと思った。

   

  


 昼過ぎに移動開始。
 ドライブインで昼食をとった後、めざすは475年から538年にかけての百済の王都・公州だ。
 高句麗の影響下、百済の都はソウル・公州・扶余と、常に南に遷されてきた。

 公州の駐車場で待っていて下さったのは、司馬遼太郎さんの「韓(から)のくに紀行」にも登場する百済史の第一人者・李夕湖先生。
 先生には半年ほど前に、歴史街道倶楽部(個人会員組織)の韓国ツア−を実施した際にも、
講演をお願いしたことがある。
 今回も熱烈な愛・百済心で、僕たちに色々な知識を授けて下さった。

 さて、公州にある武寧王陵は1971年に発見されたもの。
 当時の古墳はほぼ例外なく盗掘に会っているが、この古墳だけは無傷で、
中からは王が523年に62歳で死んだという墓誌や、伝・仁徳陵とウリ2つの鏡が出土している。
 が、あいにく展示館は工事中。
 古墳公園をぐるりと一周した後、山上にある王宮の比定地で、「夕湖節」を聞いた。
 「今、百済には何も残ってない。だが、百済の文化がどんなに素晴らしいものだったかは、飛鳥や奈良に行けば分る」

 その後、東学党の乱の戦いの碑を経由して、660年の白村江の戦いで滅んだ最後の百済の都・扶余(プヨ)に向かった。
 定林寺に唯一残る五重塔は、滋賀県にも全くウリ2つのものがある。
 宮南池の落日を見た後、出演交渉を含めて、かっての王宮跡に建つというご自宅におじゃまし、次いで市内でお礼の会食。

 面白いお話をいっぱい聞いたが、多分、6月に放送されるであろう番組内容に抵触してしまうので、あんまりここでは書かない。
 ただ言えることは、古代の両国がまさに「一衣帯水」の関係にあったということ。
 西に新羅、北に高句麗と接し、さらにその北には中国がいるシビアな環境の下、
百済と日本の間には、技術や文化はもちろん、多分、指導者の姻戚関係も含めたものすごく密接な交流があったと思う。

 まあ百済からすれば、敵は新羅や高句麗だ。
 日本と仲良くするのは、例えばマクドナルドが、
同業他社のロッテリアやバ−ガ−キングをやっつけるために、「キティちゃん」や「スヌ−ピ−」と提携するみたいなことなんだろう。
 また「遅れた場所」であった当時の大和からすれば、進んだ文化はやはり魅力的。
 例えばビックマックはおいしいし、ニコニコ店員はやっぱり気持ちいいということだったんだと思う。

 当然、当時には今でいう「日本人」とか「韓国人」とかいう概念はなかった。
 当時の「大和」の人々にとっても、進んだ文化を持つ人々との混血をタブ−視する理由はなかった。

 それに昨日、秘苑で後にソウルから水原に王様が乗っていったという「かご」みたいなのを見たけど、
こんなのに乗って、てくてく物騒な陸地を移動するより、
船に乗って海を渡る方が
そりゃはるかに簡単だよ。

  

 (左:公州の古墳公園にて 右のコ−ト姿が李夕湖先生)
 (中:東学党の乱の碑)
 (右:公州の門=奥 をくぐった所。しかしいきなりラブホテルってのは何とかならんかね=白い建物)


 で、さんざん盛りあがった後、儒城温泉のホテルに着いたのが夜の11時前。

 もちろん風呂は、もののみごとに閉まっていた。



 3/13 海印寺・友鹿洞  地方都市も頑張っている

 今日は儒城温泉から、世界文化遺産の4番目海印寺(ヘインサ)と大邸(テグ)の南にある友鹿洞(ウロクトン)を取材し、夜に慶州に入るというスケジュ−ル。
 半島を西から東へと横断する旅になる。

 伽耶山系の山上にある海印寺には、昼すぎに到着した。
 仏教の力で国を守ろうとして延々と彫られた8000本のお経の版木とともに、世界遺産になっている。

 ここを案内してくれたのは、安嬢。
 2時間に渡って、熱心に寺のことを解説してもらった。
 が、どうやら版木をモロに撮影するのは厳しそうだ。

 まあ仕方ないものは仕方ない。
 瓦を寄進して、夕暮れまでに次の目的地に急ぐことにした。

 


 ところで。
 昨日今日と、僕たちは4つの歴史観光地を巡って、
ソウル以外の地方都市でも、
歴史の保全活用や国際観光への対応が盛んに行われてきている事実に認識を新たにしてきた。

 特にワ−ルドカップまでに、色んな施設を復元し、世界からの人を迎え入れようとする動きが、今、韓国ではものすごく盛んだ。
 景福宮でも、水原でも、公州でも、扶余でも、いずれも歴史の目玉となる古い建造物を、かなり大規模に復元工事している現場に出くわした。
 サッカ−ファンやマスコミと、競技場を作るゼネコンと、自治体や国・民間の観光関係者が、全くバラバラにしか動いていない日本とはエライ違いだ。

 それと前にも書いたが、何と言っても素晴らしいのは外国人向けの案内だ。


 でもまあ。
 次に行く所については、多分、話は別だろう。

 大邸の南にある友鹿洞(ウロクトン)は、司馬さんの「韓のくに紀行」に出てくる、小さな村。
 かって豊臣秀吉が韓半島に攻め入った時、「秀吉の出兵に理なし」として3000名の兵士を率いて現地に投降した沙也可という武将が居を構えた所だ。
 決してポピュラ−な観光地とはいえない。
 だからまあ、こんな山の中では日本語ができる現地ガイドなんて絶対にいないだろうと思っていた。

 ところが何ということだ。
 ここにも日本語案内員が、いた。

 大邸市から派遣されているという李ウンジョン嬢。
 現地を訪れる司馬ファンが、何と年間6000人くらいいるからという。
 司馬さんの影響力にも驚いたが、いきなりの現地訪問に対応できるという体制に、さらにびっくりした。
 大学で日本語を勉強したというが、これからどんどん国際観光をやってくぞ-っていう流れの中で、
若い能力を生かす場が各地に準備されているというのは、本当に素晴らしいことだと思った。




 夜。
 李嬢の取り計らいで、沙也可の子孫代表・金氏とお会いすることができ、出演交渉。(右の写真)

 「沙也可は日本という国や社会を裏切ったんじゃなくて、秀吉を裏切ったんだと思いますよ」
 金氏によれば、当時の日韓の戦いは「鉄砲vs弓」で全く勝負にならなかったのだという。
 当時の戦いで、韓国には今も、歴史建造物の類はあまり残っていないのだが、
何であれだけの期間でそんな大規模な破壊行為ができたのかという、素朴な疑問が1つ解けた。

 沙也可はその後、火薬銃の製法を韓国に普及し、金姓を受け、一族全員が両班となった。
 現在の子孫は数千名に及んでいるという。


 その1:韓国に学ぶこと多し(ソウル:3/10-11)

 
その3:からいもん4兄弟(慶州・釜山・金海:3/14-16)+おまけ(今回の行程)

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